遺書

僕の生きてた証をここに

最近.cpp

#include <iostream>
int main()
{
std::cout<<"季節の変わり目がやってきた。いつものように僕は体調を崩す。今も耳鳴りが爆音で鳴っていて、お腹が痛いし、微熱がある。"<<endl;
std::cout<<"そろそろ僕の長い休日も終わろうとしている。大丈夫だろうか?日付を見るとまるでタイムスリップしてしまったみたいだ。正直、自信がない。"<<endl;
std::cout<<"この一年半、家族以外の人とほとんど会っていない。口先でいくら強がりを言っても、僕の対人恐怖は変わらない。誤魔化すことはできても、本性は気弱なままだ。"<<endl;
std::cout<<"本当はこのまま引き篭もっていたいのかもしれない。この世界はどこまでも僕に冷たいから。何もかも諦めてただインターネットに漂っている方がマシだ。"<<endl;
std::cout<<"ただ、負けず嫌いだった。このまま終わりたくなかったから僕は戦うことにした。ねぇ、社会の中で生きていくのは残酷さ。誰かの成功の下には必ず犠牲がある。インドの街の大通りは賑わっているけれど、路地裏には死体が転がってるらしい。そんな所だ。"<<endl;
std::cout<<"でも、だから皆生きていくのかもしれない。僕達が見えてる景色は、見えてるものが反射した光が作っている。そして、よく見てみると必ず影があることが分かるはずだ。"<<endl;
std::cout<<"絵を描く時には逆に影を作ることで光を再現する。光の三原色は合わせると白になり、色の三原色は合わせると黒になる。ということは絵というものはそもそも死んでいるのかもしれない。"<<endl;
std::cout<<"脱線したけど、つまり生きることと死ぬことは同時に在るんだ。死があるから生は尊くて、死のない生はもはや生ではない。ここでは巧妙に死ぬことが隠蔽されている。そしてみんな死ぬということがないかのように軽々しく死という言葉を扱う。本当の生死が分かっている人は何も語らないところにそれを示している。別に生きることが素晴らしいことでも、死ねば全て解決するとか、そういうことじゃない。これは頭で理解するもんじゃない。死が常に付き纏ってることを肌で感じられれば自ずと分かるだろう。"<<endl;

std::cout<<"また何を言ってるのか分からなくなってきた。もう遅い。感覚がおかしくなってくる。耳鳴りがいっそううるさくなった。もう寝よう。"<<endl;

//この一連の文章はフィクションです。

}

底の抜けたカップ

僕をカップに例えるならきっと底が抜けています。僕に向けられた愛情は満たされることなく僕はもっと、もっととせがむでしょう。まるで赤子のように。

いつからこうなってしまったのか、もう大昔のことなのでよく覚えていません。きっと偶然が偶然を重ねて僕を作っていったのでしょう。

僕は十分に愛されていなかったのでしょうか?精神分析的な込み入った話ではありません。きっと、愛されていたとしても、それに気付けなかった愚か者なんだと思います。

世の中には様々な愛の形があります。僕は僕の望む愛の形でしか満足できなかったのだと思います。僕の愛情欲求はすごく子供っぽいです。そして、愛情が注がれなくなることに耐えられない弱さを抱えています。

愛情の海の中に浸かっていたいのです。これはもう非現実的なイデアになってきますね。それくらい、僕はおかしくなってしまいました。

こんな現実離れした要求に応えられる人なんていませんし、きっと求められたら困惑すると思います。だから、僕は諦めました。いや、諦めようと努力しています。それが僕の幸せに繋がるかはわかりません。でも、そのほうがきっと楽です。

願わくば、ずっと夢を追いかけていたい。夢に溺れていたい。でも、きっとそれは多くの人を傷つけて、傷つけられる。そんな思いをするくらいならいっそ大人ぶって諦めてしまうほうがいいのでしょう。

ずっと一人で、ずっと。

愛されたくて

どうして僕はこんなにも愛されたがりなんでしょうか?自分でも不思議です。

別に恋愛関係に限った話ではありません。僕が会う人全てから愛されたいのです。憎まれたくないのです。怖いのです。こう考えると、僕はとても卑怯な人間に思えてきます。

愛想をふりまくことはできます。でも、そうではないのです。何かこう、心のなかの深い渇きを癒やしてくれる「愛」を求めているのです。それは愛想という仮面を剥がした、醜い僕自身が心の底から渇望しているものです。

ところで愛想と「愛」はどう違うのでしょうか。よくわかりません。ただ、本当の「愛」からは真摯さが伝わってきます。まじめに僕の嘆きに耳を傾けてくれるのです。人生の中で、数人程度そういう方とあったことがあります。とても、心根が優しい方なんだなという印象を受けました。

だから、僕は人に対して、自分のできる範囲でだけは真摯に受け答えをしようと決めました。これは自分への誓いです。そういう心がけをしていれば、きっといいことがあると信じさせてくれます。ただ、そんな保証はないのだけれど。

 

先生へ

今日、先生は僕を見て「たまがわ君は調子がいいときはしっかりとした目をしている。今は調子が悪いから、濁って見える。安静にしておきなさい。」とおっしゃいました。しかし、違うのです。

あの時の僕には大切な人がいました。つらい時には励ましてくれたり、優しく甘えさせてくれる人がいました。僕は、その人のために生きようと思っていました。だから、どんなつらいことでも乗り越えてみせると心に誓っていました。きっと、そのときの僕の目は澄んでいたのでしょう。

僕の心は希望に満ち溢れていました。多少不安はあったけれども、僕は信じていました。人が見たら依存関係に見えたかもしれません。それでもお互いに助けあってきた、つもりでした。

別れというものはいつも突然です。僕は少年のようにいつまでもこの関係が続くものだと思っていました。事実誤認が分かり、自らの非を認め、全ての誤解が解けた時、僕は一人ぼっちになっていることに気が付きました。

僕はまるで迷路に迷い込んでしまいました。

壊れた方位磁針で樹海をさまようように、僕はインターネットをうろつくようになりました。そのさまはまさに迷子、という言葉が似合うのでしょう。誰もいない、誰も助けてくれない、あの孤独の中に、かつて慣れ親しんだ憂鬱と狂乱の樹海に戻っていってしまいました。

酔いが冷め、気が付くとあの頃の自分に戻っていました。子供じみたワガママや理想、夢の世界に逃げ込んで、頭のなかで一人遊びをし始めました。それはそれは、虚しい一人遊びです。

僕はたとえ依存であったとしてもあの人が支えでした。あの人がいなければ、僕なんてこんなものです。これが僕です。濁った目で、いつも不満ばかり口にして、いつまでも大人になろうとしないクソガキです。

先生、これが本当の僕なんです。

デパケンR錠はバルプロ酸

ここ数日、頭の中が騒がしかった。よくわからない衝動に突き動かされ、よくわからないことをして、よくわからない後悔をした。といっても、いつものことなのであまり気にしていない。

昨日、医者に行くと、きっと躁状態だと思われたのだろう、抗鬱剤をギリギリまで減らしてバルプロ酸と抑肝散に処方薬が変更された。安定剤はそのまま。躁を抑えこむ処方だ、と思った。

バルプロ酸は昔からある薬で、製品名はデパケンという。躁状態を鎮めて、気分の昂ぶりを抑えて落ち着かせる効果があるらしい。僕は錠剤タイプのデパケンR錠という薬を寝る前に飲むことになった。量は分からないが、大きい飴玉みたいな糖衣丸のようだった。

処方が変わって次の日、世界が変わった。昨日までの脳髄の狂乱は全く鎮まり、凪いでいる。そして、昨日までの自分がどこかおかしかったことに気がついた。

気分が落ち着かず、ちょっとしたことでもイライラして、何かに急かされていた感情の奔流がなくなって、自分を取り戻したように感じる。一方で、狂乱を楽しんでいた自分の中の一部はお祭り騒ぎが終わったことを少し残念がっている。

本当の自分というものはなんなのだろうか?アクティブで、挑戦的で、好戦的で、アグレッシブな自分。それとも、保守的で、落ち着いていて、冷静な自分。躁と鬱、ふたつのエピソードの中で分裂した自己。

もしかしたらすべて、薬によって生み出された偽の自分かもしれない。

今朝起きたときはまるで薬でうつ状態にさせられているかのような気分だった。頭の騒がしさは消えたが、それとともに思考力やその他諸々まで何処かへ去ってしまったかのようだった。考えることもできず、漫然とただ生命活動をしている。自殺を考えるような余地すらない。何か変わらなければという切迫感もない。ありのままが、ありのままにある。そんな気持ちだ。

涅槃に入るとはこのことだろうか。僕の場合は修行ではなく薬の作用なのだが。

すべてが、ただあるがままでいいのだと思えるようになった。その一方で、なにもかもを手に入れようとしていた野心は息を潜め、何かをしようとする意欲が少しだけなくなってきた。

願わくば、このままずっと眠り続けていたい。なにもかも、このままで。

被虐待児の怒り

ふざけるな!

邪魔だというならどうして産んだんだ!

どうしてそんなひどい言葉をぼくに浴びせるんだ!

ぼくはあんた達に産んでくれなんて頼んでない!

だからぼくを灰皿代わりにするな!

サンドバッグにするな!

育てられないなら最初から産むな!

あんた達の苦労なんて知るもんか!

ぼくは産まれてきたかったわけじゃないんだ!

勝手なことばっかり言うな!

そんなにうっとうしいなら死んでやる!

遺書も書いてやる!

自殺してやる!

自殺教唆の罪をなすりつけてやる!

せいぜい刑務所の中で後悔しろ!

ぼくは死んでやる!

なぜ亮介くんは死ねと叫ぶのか


夕方のピアノ PV 神聖かまってちゃん

神聖かまってちゃんの「夕方のピアノ」という曲です。この曲の中で「死ねよ佐藤」という言葉や「死ね!」という怨嗟の声が延々と繰り返されています。

神聖かまってちゃんの曲はほぼすべてギターボーカルの「の子」本名は大島亮介という人によって作られています。この曲は小中学校時代に「佐藤」という同級生にいじめられた過去を基にした曲らしいです。

どうして彼はこんなにも「佐藤」へ「死ね」と叫ぶのでしょうか。

きっと、彼はミュージシャンになんかなりたくなかったのではないかと思います。

31歳になってまで彼は「佐藤」のことを語ります。高校は幻覚と妄想が激しくてまともに通えず、退学したらしいです。本当は、普通の人生を、普通に生きたかったのかもしれません。でも、高校中退で父親のようなキャリアに進むことも出来ず、何をすれば生きていけるのかわからないまま、2ちゃんねるで「かまってちゃん」を繰り返し、人気稼ぎをし、曲を作り、ミュージシャンにならざるを得なかったのかもしれない、と思いました。

彼は結果的に成功しました。しかし、この曲がアップロードされた2008年ではまだ無名でした。

この曲には自分の人生を狂わせた「佐藤」への痛ましいまでの怨念であふれています。どうしてこんなことをしているのか。こんなに叩かれてまでなぜオワコンと呼ばれたバンド音楽なんかをやっているのか。全部あいつのせいだ。ふざけるな。人生返してくれ。そんなメッセージが聞こえる曲でした。

深刻ないじめはいじめられた人への回復不能なまでの心的ダメージを与えます。確かにいじめられる方にも「原因」はあるかもしれません。しかし、それは単純な因果関係であって、「いい」とか「悪い」などの是非の問題ではありません。たとえ「原因」があっても、いじめることを正当化出来ません。

社会的に成功した人にもいじめられた経験を持つ人はいます。しかし、いじめられた多くの人は何らかの「しこり」を残したまま大人になっていきます。

いじめはただ悲しいだけです。

繊細な感性を持ってください。

そうすれば、誰かをいじめている自分自身に気付けますから。